破綻寸前の日本製鉄によるUSスチールの買収案件。政治と経済と法律が交錯する問題である中、大統領選の影響で、政治的な事情が経済と法律の合理性を圧倒している状況を解説していく。
この買収案件はどういうものなの?
2023年12月、日本製鉄はアメリカのUSスチール社(US Steel)を買収すると発表した。
USスチールはペンシルベニア州ピッツバーグ市に本社を置くアメリカ第2位の製鉄会社である。120年前に設立され一時は世界最大の製鉄会社だったが、近年は施設の老朽化とアメリカの製鉄産業の衰退により成長が見込めなくなり、2023年8月に身売りすると公表し、12月に日本製鉄の買収提案を受け入れた。
この案件の背景として重要なのは、日本製鉄が全米鉄鋼労働組合(United Steelworkers Union)の支持を取り付けないまま買収の発表に踏み切ったことである。
この案件にはどのような政治的背景があるの?
USスチールの本社があるピッツバーグ市は、今年の大統領選で最も重要な「激戦州」であるペンシルベニア州に所在する。この州を勝利した候補が大統領になる可能性は極めて高い。
こちらで解説している通り、ピッツバーグ市は鉄鋼の生産が主要な産業で、地元のアメフトチームが「スティーラーズ(Steelers)」と呼ばれるほどピッツバーグ市と鉄はゆかりが深い。
この街の住民の多くは白人労働者だ。従来から組合員が支持基盤である民主党と、トランプ台頭以降白人労働層に魅力的な政策を打ち出している共和党が、彼らの票に対する熾烈な奪い合いを繰り広げている。
全米鉄鋼労働組合がこの合併案件に対して反対表明をした以上、どちらの大統領候補も組合員である白人労働層の票を得たいがために合併に反対するのは当然のことと言える。
ドナルド・トランプ前大統領は2024年2月早々に反対を表明し、ジョウ・バイデン大統領も追われるように2024年3月に反対を表明。バイデン撤退後に民主党の候補となったカマラ・ハリス副大統領もバイデンの姿勢を踏襲している。
この案件にはどのような法律観点があるの?
アメリカには対米外国投資委員会(”Committee on Foreign Investment in the United States”、通称「CFIUS」)制度というものがあり、これは大統領の裁量で、国家安全保障の観点から海外企業によるアメリカ企業の買収を阻止することができる仕組みである。
日本はアメリカの同盟国なので、通常、日本企業がアメリカ企業を買収する際にCFIUS承認が問題となることはまずない。だが、バイデン大統領がこの買収に対する反対を既に表明していることを踏まえると、彼がCFIUSに基づく拒否権を行使するのは確実である。
CFIUS制度に関する法律は、大統領が拒否権を行使するか否かを判断するにあたって「国防に必要な国内製造(domestic production needed for projected national defense requirement)」を考慮できるとしており、(客観的にみた合理性はさておき)法律上の根拠は十分だ。
一般論として、行政の判断に不服がある場合は裁判所に異議を唱えることができるが、法律上、CFIUSに基づく大統領の拒否は裁判所による審査の対象とならない(“not subject to judicial review”)旨規定されているという特徴がある。
この案件に対する経済界の反応は?
この買収を成立させない理由はない、というのが経済界のコンセンサスである。
日本企業がアメリカ企業を買収することに国家安全保障の懸念がないことは常識的に考えて当たり前だが、そもそも日本製鉄はUSスチールより優れた製鉄の技術を有しており、老朽化しているUSスチールの工場に投資すると約束している。つまりこの案件では、アメリカの技術が海外に流出するどころか、より優れた日本の技術がアメリカに流入してくるのだ。
もっとも、経済界でこの合併に猛反対している会社が1社だけあり、それが2023年8月にUSスチールの買収に失敗したクリーブランド・クリフズ社(Cleveland-Cliffs)である。クリーブランド・クリフズは全米鉄鋼労働組合ととても良好な関係を築いており、実際、当社は同組合の支持を取り付けてからUSスチールの買収を提案していた。
クリーブランド・クリフズのCEOは何ヶ月も前から日本製鉄の買収は成立しないと確信し、案件破綻後、バラバラにしてでもUSスチールを買収することを示唆している。
で、日本製鉄とUSスチールの合併は成立するの?
もはや、その可能性はほぼ皆無だ。
この案件は、日本製鉄の過ちと誤算に加えて不運も重なり、ぐちゃぐちゃになってしまっている。
日本製鉄の致命的なミスは、強い権力を持つ全米鉄鋼労働組合の支持がないまま合併の公表に踏み切ったことだろう。事前に支持を取り付けなくても、背に腹はかえられない組合がいずれは支持に回ると踏んだのかもしれないが、組合が裏で(同じくUSスチールの買収を企んでいた)クリーブランド・クリフズと組んでいたことは(気付くべきだったかもしれないが)不運だった。
さらに、日本製鉄は、通常なら日本企業による買収では問題にならないCFIUS制度を軽んじていた可能性がある。CFIUS制度に基づく大統領の拒否権は、もともと1988年に日米貿易摩擦をきっかけに確立された。建前はどうであれ、大統領の判断は強い政治色を帯びる可能性があることを大統領選直前は重視すべきだった。
大統領選の予備選が始まる1ヶ月前に、アメリカ中が注目してる激戦州で、両陣営が狙ってる票の行方を左右しかねない案件を発表するとは、タイミングが悪すぎる。
日本製鉄はどこかで軌道修正できたの?
振り返ってみればこの案件は最初から失敗する運命にあったように見えるが、たとえどこかで軌道修正する機会があったとしても、明らかに状況を読み違えていた日本製鉄には無理だったように見える。
案件の雲行きが怪しくなり、日本製鉄がロビー活動してもらうためのアドバイザーを起用したのが7月。起用されたのはトランプ政権で国務長官を務めたマイク・ポンペオである。説得しなければならないのは民主党のバイデン政権なのに、共和党の政治家を起用しても大した効果は期待できない。
さらに、日本製鉄は8月19日時点で、まだバイデン政権にこの買収の経済的メリットを説いていたらしい。その頃には他にどうしようもなかったのかもしれないが、大統領選の年に経済的合理性が政治に勝てるはずがない。
大統領選の結果によっては、案件は成立する可能性があるの?
契約上、行政の承認を取るための猶予期間は2025年6月まであるが、トランプもハリスも明確に反対表明している以上、この案件は大統領選の結果にかかわらず頓挫するだろう。
この合併が成立する可能性が極めて低いことは、USスチールの株価が語っている。日本製鉄の買収価格は1株55ドルだが、現在の株価は33ドル。合併が成立すれば66%もの利益が出るのにも関わらず、市場はこの株にまったく関心を示していない。
この案件の勝ち組と負け組は?
負け組は明らかに日本製鉄だ。当局からの承認が得られず合併契約が終了されると、日本製鉄はUSスチールに5億650万ドル(約800億円)もの解約金を支払う必要が出てくる。
勝ち組はクリーブランド・クリフズだろう。日本製鉄との合併に失敗したUSスチールは、叩き売りになってでも、組合の支持があるクリーブランド・クリフズに買収される運命にありそうだ。クリーブランド・クリフズは去年の夏に1株35ドルでUSスチールを買収しようとして失敗したが、結局この騒動によりずっと安く買えそうである。