選挙から撤退したのになぜ勝てる〜 アメリカの予備選で起きた2つの異例〜

選挙から撤退したのになぜ勝てる〜 アメリカの予備選で起きた2つの異例〜

2026年8月、選挙戦から一度撤退した候補が予備選で勝利するという不思議なことがアメリカで立て続けに起きた。8月11日(現地時間)には、ウィスコンシン州(Wisconsin)で実施された民主党知事予備選で、一度撤退した後に選挙戦に復帰したデイビッド・クロウリー(David Crowley)が勝利した。8月4日(現地時間)には、ミシガン州(Michigan)の連邦下院共和党予備選でトーマス・J・スミス(Thomas J. Smith)が選挙戦から撤退した状態のまま勝利した。本稿では、2つの異例の予備選から、アメリカにおける「選挙からの撤退」の意味と予備選での有権者の投票行動を見ていく。

一度撤退した候補がどのように民主党の知事候補になったのか

ウィスコンシン州の民主党知事予備選で勝利したクロウリーは、州最大の都市ミルウォーキー(Milwaukee)を含むミルウォーキー郡(Milwaukee County)の郡長(county executive)である。2025年9月に知事選への出馬を表明したが、2026年7月8日(現地時間)、世論調査で支持率が低迷する中、自らに勝利への道筋がないと判断し、選挙戦から撤退して副知事のサラ・ロドリゲス(Sara Rodriguez)を支持すると発表した。

ところが、ロドリゲス陣営で帳簿上の選挙資金と実際の手元資金との間に大きな食い違いが発覚し、ロドリゲス本人が7月17日(現地時間)に突然撤退した。すると翌日、クロウリーは撤退からわずか10日で知事選への復帰を発表した。それまで民主党予備選で特定候補を支持していなかった現職のトニー・エバーズ(Tony Evers)知事が、クロウリーに復帰を促したためである。

エバーズがクロウリーの復帰を望んだ背景には、州下院議員のフランチェスカ・ホン(Francesca Hong)が予備選で先行していたことがある。ホンは自ら民主社会主義者を名乗っており、過去には警察組織の廃止を支持する発言もあった。エバーズを含む民主党の主流派は、民主党と共和党の支持が拮抗するウィスコンシン州でホンが党の指名候補になれば、本選挙で共和党候補を相手に苦戦することを懸念していた。主流派の本命であったロドリゲス副知事が撤退を強いられたことで、エバーズは代わりの主流派候補としてクロウリーを担いだのである。

7月30日(現地時間)には、マンデラ・バーンズ(Mandela Barnes)元副知事も撤退。こうしてクロウリーは、予備選の終盤でホンに対抗する最有力候補となった。

事前の世論調査ではホンが大きくリードしていたものの、8月11日(現地時間)に実施された予備選では、クロウリーが39.8%、ホンが39.3%を獲得し、わずか3,800票の差でクロウリーが勝利した。こうしてクロウリーは、知事選から撤退してわずか10日後に選挙戦へ復帰し、その3週間後に民主党の知事指名候補となった。

撤退したままの候補がどのように共和党の連邦下院候補になったのか

ミシガン州の連邦下院共和党予備選では、選挙運動を停止していた元エンジニアのスミスが勝利した。

スミスは7月16日(現地時間)に選挙戦から退き、クロウリーとは違って選挙戦へ復帰しなかった。そもそもスミスは目立った選挙活動をほとんど行っておらず、選挙資金もわずか1,850ドルしか調達できていなかった。撤退後、スミスはアル・レンモ(Al Lemmo)を支持すると表明した動画を公開し、その中でもう一人の候補アミール・ハッサン(Amir Hassan)を「共和党員を装った人物(crypto-Republican)」と呼んでいた。ハッサンは海軍退役軍人であり、連邦政府での勤務経験を持つ。ドナルド・トランプ大統領の推薦を受け、70万ドル(約1.1億円)もの選挙資金を集めていた。

それにもかかわらず、8月4日(現地時間)の予備選で、共和党有権者はスミスを選んだ。選挙では、スミスが50%を獲得し、ハッサンが33%、レンモが16%と続いた。6万人を超える有権者が投票する中、スミスはその半数の票を獲得した。

そもそも「選挙から撤退する」とはどういうことなのか

今回の2つの選挙を理解するうえでは、アメリカの選挙における「選挙戦からの撤退」と「立候補の取り下げ」を区別する必要がある。

日本で「候補者が選挙から撤退した」と聞けば、その候補者は立候補を取り下げ、もう投票できないと考えるのが自然である。しかし、アメリカの選挙報道で使われる「選挙戦から撤退する(drop out)」や「選挙運動を停止する(suspend a campaign)」は、通常、法律上の立候補の取り下げを意味しない。候補者が記者会見や声明で選挙運動をやめると発表することは政治的な判断であり、州の選挙法に従って正式に候補者名を投票用紙から外す手続きとは別である。したがって、資金集めや広告を停止し、別候補への支持表明をしても、法律上は候補者のまま投票用紙に名前が残ることが多い。

まさにミシガン州のスミスがそのケースであった。ミシガン州の連邦下院予備選で立候補を取り下げる期限は4月であり、スミスが撤退表明した時この期限はとうに過ぎていた。したがって、スミスは政治的に「選挙戦をやめる」ことはできても、予備選の候補者として投票用紙から名前を消すことはできなかった。投票用紙に名前が残っていれば票は有効であり、最も多くの票を獲得すれば、たとえ本人が選挙戦から退く意向を示していても勝利することになる。

ウィスコンシン州のクロウリーも名前が投票用紙に残ったまま選挙戦から撤退していた。つまり、クロウリーが「復帰」できたのは、政治的に選挙運動をやめていた間も、選挙制度上はずっと候補者であったからである。

なぜクロウリーは撤退したのに復帰して勝てたのか

クロウリーの選挙戦復帰後である7月下旬に実施された世論調査では、ホンへの支持が38%、バーンズ元副知事への支持が16%だったのに対し、クロウリーへの支持はわずか7%だった

だが、予備選の終盤戦でホンへの注目が集まると、ホンへの懸念が高まった。特に物議を醸したのが、ホンの過去のSNS投稿をめぐるテレビインタビューであった。ホンは以前、アメリカの伝統的な祝日である感謝祭(Thanksgiving)を「キャンセル」すべきだと投稿しており、その発言について説明を求められたが、ホンは元シェフだったことを強調する回答をして批判を受けた。人気が高いエバーズ知事は全面的にクロウリーを応援し、バーンズが撤退してクロウリーがホンに対抗する唯一の有力候補になると、クロウリーは反ホン票の受け皿となった。

最終結果はクロウリー39.8%、ホン39.3%であった。地域別に見ると、ホンは地元マディソン市を含むデーン郡(Dane County)など、大学キャンパスがあり、若者やリベラルな有権者が比較的多い地域で強さを見せた。一方、クロウリーは地元であり人口最大のミルウォーキー郡でホンを上回り、州内の農村部で票を集めた。終盤でクロウリーが中道派の票を固めてホンを追い抜いたと言える。

なお、撤退したロドリゲス副知事とバーンズ元副知事の名前も投票用紙に残っており、いずれも4.1%の票を獲得した。これらの票は、主に二人が撤退を表明する前に郵便投票で投じられたものと思われる。ウィスコンシン州では従来、返送済みの郵便投票を無効にして投票をやり直す手続きがあったが、州裁判所がこの制度は違法だと判断していた

なぜスミスは撤退したまま勝ったのか

スミスがなぜ撤退したまま、トランプ大統領の推薦を受けて選挙資金も潤沢だったハッサンに勝利できたのか、簡単には説明できない。候補者の活動量、選挙資金、主要な推薦のいずれを見ても、スミスが優位に立っていたとは考えにくい。

だが、勝利の要因としてまず考えられるのは、この予備選自体への関心の低さである。この連邦下院選挙区は共和党にとって厳しく、本選挙では民主党が優位と見られている。そのため、共和党予備選への関心が低く、スミスが撤退し別の候補への投票を呼びかけていたことを知らない有権者が多かった可能性がある。

そのうえで、候補者の名前そのものが投票判断に影響した可能性が否定できない。「スミス(Smith)」はアメリカで最も一般的な姓の一つであるのに対し、「ハッサン(Hassan)」は中東やイスラム圏を想起させやすい。候補者について十分な情報を持たない有権者が、名前から推測される人種、民族、宗教などを判断材料にしたのではないかと指摘されている

2つの予備選から日本が学べることは

日本では国政選挙の候補者選びに党本部や地方組織が大きな役割を果たすが、アメリカでは予備選が行われ、最終的に有権者が候補者を決める。これは、候補者選びを党幹部に委ねず、有権者が直接参加できるという意味で民主的な仕組みである。一方、今回の2つの「撤退候補」の勝利からは、その制度の異なる側面も見えてくる。

ウィスコンシン州では、民主社会主義者のホンの勝利が現実味を帯びると、本選での勝ちやすさを重視する民主党主流派が、より中道的なクロウリーを支えた。政党が候補者を直接決めなくても、推薦や組織力を通じて有権者の選択に大きな影響を与えることができた。一方、ミシガン州では、スミスが撤退して別の候補への投票を呼びかけたにもかかわらず、有権者はスミスを選んだ。こちらでは、候補者本人でさえ有権者の選択をコントロールできなかった。

候補者を選ぶ権利を有権者に与えることと、有権者が十分な情報を持って選ぶことは同じではない。日本でも、世襲問題などへの改革案として党員による予備選の導入が提案されることがある。しかし今月、アメリカで撤退した候補が相次いで勝利した2つの選挙は、候補者選びを有権者に委ねる制度が持つ強さと難しさの両方を浮かび上がらせている。

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